故郷長門の誇る萩焼作家展(NO.8)
大野孝晴展(最終回)
大野孝晴氏と私

(大野窯)

(読売新聞・二百字のこころより)
クリスマス愛のメッセージソン
二百字のこころ
萩焼の炎 子に託した友の執念
「君の三回忌法要の挨拶をした長男は入社した動機を、父のふじの舞との関連を淡々とした言葉で語り、今春大学を卒業した者と想えない程のすばらし感動をを我々に伝えたよ。
君は還暦になって年齢の深みのある茶陶の作品に本格的に取り組みたいと熱望したが、不治の病を悟り、高熱の体にもかかわらず長男に萩焼の炎の音を伝えた。期するところがあったのだろう。長男が炎の音を作り出す時は力になると命日の墓前で静に誓った。
徳山郵便局長
藤井 文則 58」
長門市出身の藤井さんには、萩焼への深い愛着がある。なかでも、萩焼作家二代目大野孝晴さん(日本工芸会正会員)とは大津高校の同級生。活躍を見守ってきた。
大野さんは電気窯を取り入れるなど、技術の向上に余念がなかった。息子がいた。「こんな苦労はさせたくない。できるなら継いでもらいたくない」と、よく藤井さんに話した。
三年前、がんにかかった。今後を嘱望され、夢があった。でも諦めなくてはならない。余命幾許もない時、登り窯に火を入れ、大学三年生の息子に、作家人生の最後の姿を見せた。一昼夜、薪をくべる。「パチパチ」。窯の中で炎が燃え、音がした。
その様子を藤井さんに語り、一ヶ月もしないうちに亡くなった。54歳だった。
「窯は薪を投げる思いによって、音まで違う。最後は息子にやってもらいたいと思ったんでしょう」、と藤井さんは回顧する。
今秋の法要。社会人となった息子に、藤井さんら周囲が目を細めた。(おわり)
※ 大野孝晴氏の三回忌の後、読売新聞の藤野支局長の要請により、200字で書いた。これが最後の大野孝晴氏の対する言葉でした。

(窓口ロビー展取りまとめ)
28ページにまとめられています。最初でしたので、末尾に河野良輔先生の―萩焼の歴史と技術と民俗―を掲載しました。
新聞記事掲載は8件、テレビ2件放映、ラジオ5件でした。
大野孝晴氏は、過去の受賞した作品を全てを公開してくれました。これも河野良輔先生の深い想いが込められていました。長門郵便局で最初の作品シリーズで、長門市では、始めて本格的な萩焼展が開催されたのですから、大野孝晴氏も強い想いがありました。
自分の仕事を息子に継がせたくないはずはありません。大野氏は新興窯の二代目だから、苦労もたくさんしてきました。それをそっと見守りながら、激励していたのが恩師の河野良輔先生でした。
河野良輔先生は、山口にお勤めの帰りにいつも大野窯に立ち寄り、大野夫妻に声を掛けていました。
第1回の「郷土長門が誇る萩焼展」は大成功のうちに終わりましたので、さらに話題になり各窯元の弟子たちも積極的に見学に郵便局に訪れ、さながら各窯元同士の競演にエスカレートしていきました。

(大野夫妻を局長室で「賞詞」の伝達)

(記念品の贈呈)

(大野夫妻と語らい)
私で出来ること、平成5年10月12日局長室で「賞詞」の伝達と
翌年逓信記念日に「局長表彰」を実施しました。逓信記念日の一日局長の任命は、3月27日に出雲郵便局に赴任いたしましたので、次の局長のもとで実施されました。
「平成5年当用日記」「平成5年手帳」「1993〜1995三年日誌」から、引用しました。
○平成5年7月1日長門郵便局拝命。
○平成5年7月23日、大野孝晴氏宅に伺い「カミュー」を届ける。
○平成5年8月2日〜5日 富士山登頂
○平成5年9月3日大谷山荘リニューアルオープン記念出席。
大野孝晴氏から読売・朝日・毎日新聞記者を紹介していただく。
終了後大野孝晴氏と共に河野良輔先生宅に伺う。約3時間余り「郵政事業は文化事業であると説明しました」河野先生から全面的にご支援いただくことになりました。
私の局長生活及び将来の生活もこの日がスタートの日でした。
そして、9月19日〜9月29日の大野孝晴展が開催されたのです。この企画が大成功したのは、親友の大野孝晴氏が河野良輔先生との再会を手引きしたことが全てです。
みすゞさんの詩
夏越しまつり
ぽっかりと
ふうせん、
瓦斯の灯が映るよ。
影灯篭の
人どおり、
氷屋の声が沁みるよ。
しらじらと
天の川、
夏越し祭の夜更けよ。
辻を曲がれば
ふうせん、
星ぞらに暗いよ。
(詩はJULA出版局より)

