( 昭和14年ブリの大漁)
この写真が、再び一週間後に川尻に行き、川尻捕鯨組にとっては、大変重要な大神山に行くことになりました。
来年の長門郷土文化研究会の会誌に「古式捕鯨川尻鯨組後始末記」(仮称)を書きたいという気持ちになるとは思いませんでした。
「2月12日(木)大神山目指しては」後日に改めて記載したいと思います。
昭和14年マグロ捕獲 昭和10年前後の内ばつを工事中
昭和14年ごろの写真、
左から、左の白い建物は、川尻鯨組天野家
まん中、祭りの風景で左の二階建てが川尻鯨組天野家
大漁の浜辺
川尻公園にある石碑 暖流短会会
「暖流短歌会」―左から、新坂氏・天野剛氏・境氏・天野ヤス・藤野美智子・広瀬・後列中原白道氏・町田氏・田中ヤス子
「暖流短歌会」は昭和15年に結成・天野 剛氏が中心で現在も続いている。写真の家は、天野家宅である。天野夫妻は、昭和63年4月1日剛90歳で逝去、同5月15日妻ヤス逝去。川尻鯨組網頭最後の川尻在住者がいなくなりました。
「鯨とり(いさなとり)
榮えし
遺せき
ここのみ登
大神山は(おおかみやまは)
かたそびや
かす」
この短歌の石碑を見たときに、川尻鯨組網頭の最後の子孫在住者天野 剛氏の思いが込められていました。16枚の「川尻捕鯨絵図」の返還、山口漁協川尻支店に掲出の「古式捕鯨絵図」6枚の坂倉槌氏の存在・
少数の網主(網頭)の占有物とされてきた捕鯨権を、浦方漁民の全体の共有であるとする捕鯨民主化闘争の旗頭となり、明治9年(1876)浦民244戸うち144戸から「捕鯨組は個人が占有するものでなく、一村共有の事業である」として異議が起こされ、紛議エスカレートして浦は真二つに割れてしまった。
廃藩置県後、膨大な負債を抱えた川尻鯨組が、12人の株主の手で起死回生の再建を遂げてから、ようやく昔の繁栄を取り戻そうとしていたやさきだけに、両派の対立は和談ではあさまらず、ついには公裁に持ち込まれたが、始審、上等裁判ともに12人の組主の共有物であるとのはんけつがなされ、一件が落着した。(長州・北浦捕鯨のあらまし」河野良輔著より
河野良輔先生の著書に出てくる、「川尻捕鯨」の模様に、中原白道住職の祖父唯心住職が中心者と知りませんでした。
一件落着しましたが、中心者の唯心住職は、川尻を離れ一家がばらばらになりました。そして何年後、川尻鯨組の網頭から川尻に帰ってくるようにということで、現在の河内神社の位置にあった「潮聲庵(ちょうしょうあん)」に帰ってきました。ところが明治政府の「廃物希釈運動」で「潮謦庵」は廃寺になり、その後川尻小学校の跡地に移転する。その後鯨組網頭斎藤家の跡地に現在の浄念寺が存在する。誠に不思議な運命に左右されていました。
明治の自由民権運動がこの地にまで多少なりも関連があり、明治のダイナミックの歴史の中で翻弄されていくいろいろな出来事が凝縮されているようでした。
天野 剛氏の短歌に惹かれ、この一年間「古式捕鯨の川尻捕鯨後始末記」(仮称)を書いてみたくなりました。そんな気持ちにさせた古い写真の一群でした。
みすゞさんの詩
鯨取り
海の鳴る夜は
冬の夜は、
栗を焼き焼き
聴きました。
むかし、むかしの鯨捕り、
ここのこの海、紫津が浦。
海は荒海、時季は冬、
風に狂うは雪の花、
雪と飛び交う銛の縄。
岩も礫もむらしきの、
常は水さえむらさきの、
岸さえ朱に染むという。
厚いどてらの重ね着で、
舟の舳に見て立って、
鯨弱ればたちまちに、
ぱっと脱ぎすてすて素っ裸、
さかまく波におどり込み、
むかし、むかしの漁夫たち―
きいてる胸も
おどります。
いまは鯨はもう寄らぬ、
浦は貧乏になりました。
海は鳴ります。
冬の夜を、
おはなしすむと、
気がつくと―
(詩はJULA出版局より)
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平成21年10月8日 藤井 文則